しおの備忘録

僕がいつも何となく考えていること(未完)

読解という厄介なクセ

「作者の気持ちを答えなさい」という問題は、学校教育での人間の規格化、あるいは理不尽さの象徴として非難されがちではあるが、実際にはあまり出ない。採点基準にできる明確な根拠が示されていない場合が多いから。

 

そうやってシステマチックに問題を解くことを覚え、「この段落での作者の主張をウン十字以内でまとめなさい(暗黙の八割超えルール)」だとか、「傍線部③の根拠を二つ、文中から抜き出しなさい」だとかは非常によく訓練されてきた。

 

そして最近は専らこれに苦しめられている。

 

 

 

世の中の論理的領域のものは意外に多くはなく、境界があいまいで、偏っていて、瞬間的なものが沢山ある。

最小単位に分割分類して階層や構造を確認すると消えてしまう何かがある。

 

12年間積み重ねて論理を染み込ませてきた自分は、そのことを感じつつも保留してきた。

 

けれども、怒涛の訓練がひと段落してきてから、流れ、論理構造、整合性、そういうものが野暮になる領域に対峙する余力ができてきた。

 

 

 

芸術とかの一言では片づけられないのだろうけど、所謂そういう領域に対して、自分の物の見方がいかに鈍く、的外れで(この言葉自体”論理的領域”の言葉かもしれないが)、つまらないかを感じている。

 

印象をそのまま受け止められず、主張を探し、含意を探し、流れを探す。感覚器官としての心を切り離すことにすっかり慣れて戻れなくしまった。

 

 

どうしたらいいんでしょうねぇ。

それだけです。

 

 

エピジェネティクスやら動物の発生やらの話でよく出てくる絵がある。

球体が斜面を転がり落ちようとしている。斜面は波打っていて、ボールがたどる可能性のある谷が分岐している。下まで転がり落ちてしまえば、そこから丘を越えて隣の谷へ移動することはない。(Weddington, 1957)

時とともに可能性の分岐をたどることは枝分かれした谷に落ちていくようなもので、一度選択をした後で時を戻し選ばなかった方の状態へ行くことはできないという図。

 

これを思い出すと今から感性でも生きることができる人間になることは不可能なのではないかという気がしてくる。

 

何とかして、感性だけで物事を見ることができるようになれないだろうか。

瑞々しい感性と感覚で生きている人がどうしようもなく羨ましくなる。

 

 

 

*参考という名の最近影響されているものリスト

 

 


www.youtube.com


www.youtube.com


www.youtube.com