しおの備忘録

僕がいつも何となく考えていること、140字を超えるツイート

おもしれーやつになりたい

「なんか面白い話してよ」ってやつにマジで面白い話を返せたらかっこいいと思うんです。想像しただけで勝った気になります。あるいは、ちょっとできちゃった空白時間で「ところで………」とおもしろ小話で盛り上がってなんかいい気持ちになりたい。ウケたい。

 

いつか来るその「なんか面白い話」のホームランのために、どんな話がウケるだろうかと考えることがあります。

 

でも本当に難しい。自分の語りをブランド化しておもしろトークを売っている人々は本当にすごいですね。落語家、芸人、ラジオパーソナリティ、Youtuber…プロになれるまで磨き上げた芸を見て自分もあれをやりたいというのは傲慢かなあ…

 

でも小学生の頃って、そういうのあった気がしません?

友達やクラスメイトとの会話で絶対ウケる話題とか、また聞きたくてリクエストしたりされたりする話題。

大体はご近所冒険譚とかそんな程度だったけど、無邪気にしゃべってた気がします。

 

大人になってからは、両ひざを擦りむいた話とか、この前見つけた隠れ家的遊び場とか、公園の隅の不思議な実がつく木だとかの話ではたいして面白がって貰えないので、みんなちゃんと大人になれてるんだなあと思いながら次の鉄板ネタを考えています。

名前へのこだわり

インターネットに行けば自分に好きな名前を付けて全く自由に過ごせると思っていたんだけど、何年かやっていたらそうでもないぞということが分かってきた。

 

僕は塩のイデアというネット渡世名も、僕という一人称を使うことも、Twitterを始めた当初の自分の好みで選んだ。ちょっと面白いと思って、自己顕示欲もあって、大学に入って数週間のうちに振る舞いがエスカレートしていき結構なツイッタラー(笑)をやっていた。

初めてスマホをもって、初めてSNSをやって浮かれていた。

 

本当に狭くて単調だった身の回りが、情報量が多く速くなって色んな物事と関わる事になった。

思い返しても恥ずかしいことが多いけど、いろんな友人やミームや体験(良いとは限らない)を得られたし、自分の一部になった。

 

それはそれでいいんだけど、”関わりが増える喜び”みたいなものの興奮からゆっくり覚めてきた今、なんだかしっくりこないのも事実としてある。

 

もっと自然な、奇をてらっていない感じの雰囲気でいたい気持ちが強くなってきた。あと、塩とよばれることが多くあって、自分は塩そのものには一切関係もなければ興味も特別な感情もないので、惰性と人間関係上の都合で名乗り続けていて、ある意味で現実の名前と変わらなくなってしまった。

 

ネットじゃない自分には、出席でよく読み間違えられるような苗字とクラスに2人いるような在り来りな名前がある。

Google検索によれば同姓同名はいない。

そんな、ちょっとした珍しさ、煩わしさと、自分にはなんか似合わんなあという気持ちが、これまでずっと名前への執着を焚きつけてきた。

 

自分の名前はもっと違う方がしっくりくるのになあとか、あの人の名前はいいなあとか、自分がなにかに名づけるとしたらどうだろうとか。

 

自分で自分に名づけることで名前へのこだわりが減るかと思ったら、結局そうでもないらしい。

 

最近は、ネット一人称は自分になった。

五月病って字面はちょっと風流な気がする

五月はこころの季節ですね。

 

暗く厳しい冬に向かっていく季節はやれ食欲だスポーツだなんだと賑やかなのに、これから夏が来ようとする五月に精神的安定を気にせざるを得なくなるのは面白い。

ゴールデンウイークだって手放しにワクワクできるのは子供くらいのもんじゃないですか。あと社畜。

軽率な偏見だけど。

 

明日は30度らしいですよ。今日は雨が降って長袖を着ていたのに。

 

五月病って抑鬱状態になるのが普通なのかもしれないけど、自分はどうも安定を欠いている状態というか、虚ろな時とガンギマリな時が交互に来る感じで毎年過ごしがちです。

 

先週末献血に行ってきたんですが、献血ってアカウント登録ができて、過去の検査結果とかも見れるんですよね。

ふと日付見たらほぼ毎年五月でした。

全血400 mlであっても、半年後に解禁されるので秋冬に行ってもおかしくないんですが、献血に行きたいなってなる時が五月なんだなあ。

 

 

 

という下書き*1を発掘した。ほぼ一年前の記事だけど、この一年はこの時の気分がずっと続いていたような気がする。

 

笑って誤魔化せなくなりそうなほどの精神的不調を味わい、流石にやばい年だった。

初めて深淵のフチに近づき、どこまでも深く落ち込む黒い穴を見たような気がする。次の五月と夏の猛暑は乗り切れるだろうか。原因の何割かは緊張と高温であった。

 

 

精神的な不安定さというか、調和の欠けた状態を経験したこともあるのか、とにかく自己を責め立てネガティブなことばかり考える傾向が強くなってしまった。

もう以前のような自分が気に入る記事を書けなくなってしまったかもしれない。

 

過去の記事を読み返してみて、透き通った素朴さにちょっと悲しくなってしまった。

 

 

 

 

*1:最終更新が2024年5月

作ったもの一覧

増えたら追加します。

*GPA凧揚げ

学科分属を控えた正月に、友達と凧にGPAと書いて揚げた。

GPA上昇の願掛けのつもりだったが上下を間違えて書いたため負の値に上がってしまっている。

こちらは低空横ばいのGPA。

辛うじて漸増していそうな雰囲気はある。

 

*名大ぐらし(Google map - マイマップ)

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=12JAiYtdaQwVsXV6cTncdBxp3HHyUxIa3&usp=sharing

東山で一人暮らしをするようになり、生活を楽しむために作ったマップ。

スポット情報はTwitterのみなさんが教えてくれた所もいっぱいある。

作ってから更新をしていなかったためコロナ前の情報が残っている。

 

*セーブポイント

 

二次試験日に合わせた受験生への激励。

一人で作るのは大変だったので友人たちとの共同制作。

過去の他の人たちの作品のたどった流れから拾得物として怒られが発生するかと思いきや、あるタイミングで無言で撤去されたらしく、没収されたのかもわからないまま紛失。

 

*マニ車

ブッダマシーンの存在を知ってから、そういう”効率よく徳が積める道具”が世の中に存在できていることに興味を持った。しかもチベット仏教公式グッズ*1として長らく使われるマニ車の存在はとても興味深い。ので作ってみた。

中には真言を大量に書いた紙を巻いて入れてあるので、一回転ごとにそれを全部読んだことになるという代物。

きちんとお断りしておくが、強い信心を持たぬ自分が作ったこれはレプリカ以上のなにものではない。

 

真言を唱えながら右回りに回している様子。

*1:注:もちろん比喩です

夢の内容ってその人毎のクセがあるよね

ずっと書きかけの下書きのことを話したら公開してと言われたので、何本か加筆修正して公開してみます。


この前*1、友人たちと飲みの席で親知らずやら虫歯やら口の健康の話になって、自分は歯が抜ける夢をよく見るという話をした。
みんな偶に夢の中で歯が抜けたりしていると思っていたので、驚かれたことに大層驚いた。

口の中の何本かの、または全部の歯が気づいたらグラグラしていて、触って揺らしたり舌で突っついたりしているうちにポロッと取れるのでスイカの種みたいにペッと吐き出すのだが、歯が取れた時少しスッキリする。もちろん歯が無くなるのは困るなぁと思いながらなんだけど。

伸びをしてコリをほぐすとか、鼻をかんだら全部出るみたいな爽快感に近い。

夢は結局感覚の連続なのではないかと思う。
夢を見ることについてきちんと調べたわけではないけど、寝ている間は脳の掃除と記憶の整理を行うと言うから、夢は脳のクリーニングのために棚卸をしている状態なんじゃないか。

つまり、意識や外界の刺激を遮断して現実/非現実の区別や感覚の秩序を失い、どこかにいる感覚、その場所の広さや他者の存在感、色や音や体の重さの感覚、意味の感覚、そう言うものが解放されて次々と引き出されていくことなのかもしれない。

夢に色がついていないと言う人は色の感覚が現れることがなく、たまに夢で歯が抜ける自分は”口の中で歯がぐらぐらする感覚”が誘起されやすいのかもしれない。

誘起といえば、先日友人達と、想起や類似性の発見は脳内でどういうことが起きているんだろうかという話をした。

この時の結論は、脳の活動によって活性化した神経回路は補強されるので、再度それに近い回路が活性化される際に過去に強化された回路も惹起されて過去の脳の活動と重ね合わせが起こり、それが想起や類似性の発見になるのではないかということになったが、こういうシステムは夢を見ることにも通ずる気がする*2


幻覚や明晰夢との関係はどうなんだろう。

夢が記憶に残らないのはなぜなんだろう。

自分以外のひとたちは、いったいどんな夢を見るんだろう。

研究が進んでほしいけど、一方で謎のまま存在してほしいとも思う。

夢はそういう不思議な雰囲気を持っている。

*1:この部分は2021年12月当時の話

*2:類似性の発見

散歩憲法制定のこと

ここ数日、散歩をしたり、ラジオを聞いたりしながらこんなことを考えている。

 

みんな散歩が好きですよね*1

特に見知らぬ場所を新たに生活圏にしようというときは、新しい家や学校なんかの生活拠点の周りが気になるし、一番近いコンビニと駅までの道くらいは用事がなくても見ておく。

 

まだどこでもドアは完成していないから、人間が暮らしていくにはどうしても地上を連続的に移動せざるを得ない縛りがあって、歩いたり自転車や車に乗ったりしないといけない。日常生活だと、家からちょっと歩けるくらいの距離の、つまり生活圏にある施設は自力でリーチできる生活上のリソースと見做せるのでは。近所のコンビニ、スーパー、病院、駅などが自分の生活を支えてくれます。

飲み屋、ゲーセン、カラオケ屋があるとなると大いに結構、本屋、ジム、朝早くからやってる喫茶店までそろえば充実した生活が送れること間違いなし。

 

そんな風に自分のご近所を調べて安心するのは人の本能だと思う。地図で見るだけでは心許ない感じがするし、実際に歩いてこの目で見てみるのが大事。ここまではわかってくれる人も多いんじゃないかと思いますが、散歩好きが高じた人間は、生活に慣れた後も、もはやライフワークとして散歩を嗜みます。

自分が住んでいる地域の、どこに何があるのかを知って、ご近所の景色を一通りみて、さらに情報を上書きするように往来する。

 

つまり散歩は、人が土地を区切り点検し自分の領土を確立する営みである。

 

そこで、ここに自分の家を(心理的に)中心とした生活圏の散歩による国の確立と、その基本原則としての散歩憲法の制定を試みます。

 

まずは第一条。

領土は散歩による点検が断続的に続く範囲である。徒歩が推奨されるが、自転車での徘徊でもよい。郵便局、コンビニ、スーパーを含む最小領域を重点的散歩特区とする。

 

第二条。

領土は弛まぬ散歩によって保たれる。通わなくなった場所はもはや生活圏ではない。また可能な限り多様な時間帯に散歩し、景色の見え方の違いや時間による違いに注意する。

 

第三条

この国は歩く者の心の中に存在する情報のひとまとまりであって、歩いた領土そのものは所有できるとは限らないし、領土を根拠とした権限はこれを他人に及ぼしえない。

 

いい感じだ。

それと、散歩を愛するものとして欠かせないことがある。

 

 

第四条

散歩ではできるだけ異なる道を選ぶこと。地図を見ずに心行くままに歩くこと。新しい道を覚え、新しいスポット、新しい地区の開拓を積極的にすることは心の健康と生活の刺激にとてもよい。一歩踏み込んで覗いてみることが領土を豊かにする。

 

第五条

毎回の散歩で新しい発見をすること。視界に入りにくいもの、動くもの、変なもの、小さいもの、消えるものに気を配ること。落書き、生き物、落とし物、像、目立って大きな建造物が地域を彩っている。

 

第六条

つまらないのならばさっさとやめるべし。

 

そういうわけで、今日も上着を羽織って、カギと財布を持ってふらふら歩きに出る。機嫌のいいときはお酒も持って。

道中拾ったものや買った花、撮った景色を持って帰るので、自室は国立博物館といった感じです。

 

 

 

*参考という名の影響されているものリスト


www.youtube.com

*1:主観です