しおの備忘録

僕がいつも何となく考えていること(未完)

ありきたりで新鮮な驚きの覚書

 

実験が長引き深夜も2時が近づいてくると学内の明かりはまばらで、それでもかすかに感じていた人の気配が、学外へ一歩出ると本当にさっぱり無くなる瞬間がある。

 

 

研究室から下宿に向かう道の途中には林に挟まれた門があって、大学の敷地と住宅街とを分けている。その鉄パイプの車止めを自転車ですり抜けるとほっそい歩道に当たるが、ガードレールが邪魔して車道に出られないので、すり抜けきらないうちからぐっと曲がらされる。

 

はじめは前カゴの角や跳ね上げてあるスタンドなんかをぶつけながらヨタヨタ通っていたのに、いつの間にか両膝を体育座りみたいに曲げてするっと抜けるようになった。

 

 

すぐそこにはT字の交差点があって、深夜の住宅街なんて他に誰もいないんだからさっと渡ってしまっても別にいいんだけど、律儀に赤信号を待っている、こんな時間もいいなあと思う。

 

大昔から丑三つ時っていう言葉があるように、とっくに科学がお化けを克服したというのに、日常から切り離された異空間にいるような気がしてドキドキする。

 

 

信号は昼間よりもよっぽど無機的で、だれも居なくたってちゃんと時間ごとに切り替わるから尚更浮いた心地がする。一方で、自分以外の唯一の動的なものでもあって目が離せない。

 

この場に馴染もうとするようにじっと待って、向こうの歩行者用の青信号が点滅し始めたとき、音がないことに気づいた。

 

 

光に音はない。

 

 

さすがに常識だし、常識云々の前に経験的に理解している。大人なんだから、理屈で詳細に説明することだってできる。

 

でも、本当に何も考えず、あれ、音がしないと思った。

そのあと、「光」と「音」の概念そのものが新鮮に切り分けられて感じられた。

 

 

点滅する光は「チカチカ(標準語)」、「パカパカ(名古屋弁)」という擬語で表現されるし、昼間の信号は車通りや人の動きが信号機の切り替わりと連動して音の波を生むからなんとなく連続したものとして感じ取っていたことに気づいた。

 

 

 

経験で改めて当たり前を知った瞬間に、自分が日々を無意識的に流しながら生きている事を自覚するんだけども、いつも思いがけないところから突然目の前に現れて鮮烈な印象をほんの一瞬だけ残していくので捕まえるのが大変である。

夢の内容ってその人毎のクセがあるよね

ずっと書きかけの下書きのことを話したら公開してと言われたので、何本か加筆修正して公開してみます。


この前*1、友人たちと飲みの席で親知らずやら虫歯やら口の健康の話になって、自分は歯が抜ける夢をよく見るという話をした。
みんな偶に夢の中で歯が抜けたりしていると思っていたので、驚かれたことに大層驚いた。

口の中の何本かの、または全部の歯が気づいたらグラグラしていて、触って揺らしたり舌で突っついたりしているうちにポロッと取れるのでスイカの種みたいにペッと吐き出すのだが、歯が取れた時少しスッキリする。もちろん歯が無くなるのは困るなぁと思いながらなんだけど。

伸びをしてコリをほぐすとか、鼻をかんだら全部出るみたいな爽快感に近い。

夢は結局感覚の連続なのではないかと思う。
夢を見ることについてきちんと調べたわけではないけど、寝ている間は脳の掃除と記憶の整理を行うと言うから、夢は脳のクリーニングのために棚卸をしている状態なんじゃないか。

つまり、意識や外界の刺激を遮断して現実/非現実の区別や感覚の秩序を失い、どこかにいる感覚、その場所の広さや他者の存在感、色や音や体の重さの感覚、意味の感覚、そう言うものが解放されて次々と引き出されていくことなのかもしれない。

夢に色がついていないと言う人は色の感覚が現れることがなく、たまに夢で歯が抜ける自分は”口の中で歯がぐらぐらする感覚”が誘起されやすいのかもしれない。

誘起といえば、先日友人達と、想起や類似性の発見は脳内でどういうことが起きているんだろうかという話をした。

この時の結論は、脳の活動によって活性化した神経回路は補強されるので、再度それに近い回路が活性化される際に過去に強化された回路も惹起されて過去の脳の活動と重ね合わせが起こり、それが想起や類似性の発見になるのではないかということになったが、こういうシステムは夢を見ることにも通ずる気がする*2


幻覚や明晰夢との関係はどうなんだろう。

夢が記憶に残らないのはなぜなんだろう。

自分以外のひとたちは、いったいどんな夢を見るんだろう。

研究が進んでほしいけど、一方で謎のまま存在してほしいとも思う。

夢はそういう不思議な雰囲気を持っている。

*1:この部分は2021年12月当時の話

*2:類似性の発見

散歩憲法制定のこと

ここ数日、散歩をしたり、ラジオを聞いたりしながらこんなことを考えている。

 

みんな散歩が好きですよね*1

特に見知らぬ場所を新たに生活圏にしようというときは、新しい家や学校なんかの生活拠点の周りが気になるし、一番近いコンビニと駅までの道くらいは用事がなくても見ておく。

 

まだどこでもドアは完成していないから、人間が暮らしていくにはどうしても地上を連続的に移動せざるを得ない縛りがあって、歩いたり自転車や車に乗ったりしないといけない。日常生活だと、家からちょっと歩けるくらいの距離の、つまり生活圏にある施設は自力でリーチできる生活上のリソースと見做せるのでは。近所のコンビニ、スーパー、病院、駅などが自分の生活を支えてくれます。

飲み屋、ゲーセン、カラオケ屋があるとなると大いに結構、本屋、ジム、朝早くからやってる喫茶店までそろえば充実した生活が送れること間違いなし。

 

そんな風に自分のご近所を調べて安心するのは人の本能だと思う。地図で見るだけでは心許ない感じがするし、実際に歩いてこの目で見てみるのが大事。ここまではわかってくれる人も多いんじゃないかと思いますが、散歩好きが高じた人間は、生活に慣れた後も、もはやライフワークとして散歩を嗜みます。

自分が住んでいる地域の、どこに何があるのかを知って、ご近所の景色を一通りみて、さらに情報を上書きするように往来する。

 

つまり散歩は、人が土地を区切り点検し自分の領土を確立する営みである。

 

そこで、ここに自分の家を(心理的に)中心とした生活圏の散歩による国の確立と、その基本原則としての散歩憲法の制定を試みます。

 

まずは第一条。

領土は散歩による点検が断続的に続く範囲である。徒歩が推奨されるが、自転車での徘徊でもよい。郵便局、コンビニ、スーパーを含む最小領域を重点的散歩特区とする。

 

第二条。

領土は弛まぬ散歩によって保たれる。通わなくなった場所はもはや生活圏ではない。また可能な限り多様な時間帯に散歩し、景色の見え方の違いや時間による違いに注意する。

 

第三条

この国は歩く者の心の中に存在する情報のひとまとまりであって、歩いた領土そのものは所有できるとは限らないし、領土を根拠とした権限はこれを他人に及ぼしえない。

 

いい感じだ。

それと、散歩を愛するものとして欠かせないことがある。

 

 

第四条

散歩ではできるだけ異なる道を選ぶこと。地図を見ずに心行くままに歩くこと。新しい道を覚え、新しいスポット、新しい地区の開拓を積極的にすることは心の健康と生活の刺激にとてもよい。一歩踏み込んで覗いてみることが領土を豊かにする。

 

第五条

毎回の散歩で新しい発見をすること。視界に入りにくいもの、動くもの、変なもの、小さいもの、消えるものに気を配ること。落書き、生き物、落とし物、像、目立って大きな建造物が地域を彩っている。

 

第六条

つまらないのならばさっさとやめるべし。

 

そういうわけで、今日も上着を羽織って、カギと財布を持ってふらふら歩きに出る。機嫌のいいときはお酒も持って。

道中拾ったものや買った花、撮った景色を持って帰るので、自室は国立博物館といった感じです。

 

 

 

*参考という名の影響されているものリスト


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*1:主観です

読解という厄介なクセ

「作者の気持ちを答えなさい」という問題は、学校教育での人間の規格化、あるいは理不尽さの象徴として非難されがちではあるが、実際にはあまり出ない。採点基準にできる明確な根拠が示されていない場合が多いから。

 

そうやってシステマチックに問題を解くことを覚え、「この段落での作者の主張をウン十字以内でまとめなさい(暗黙の八割超えルール)」だとか、「傍線部③の根拠を二つ、文中から抜き出しなさい」だとかは非常によく訓練されてきた。

 

そして最近は専らこれに苦しめられている。

 

 

 

世の中の論理的領域のものは意外に多くはなく、境界があいまいで、偏っていて、瞬間的なものが沢山ある。

最小単位に分割分類して階層や構造を確認すると消えてしまう何かがある。

 

12年間積み重ねて論理を染み込ませてきた自分は、そのことを感じつつも保留してきた。

 

けれども、怒涛の訓練がひと段落してきてから、流れ、論理構造、整合性、そういうものが野暮になる領域に対峙する余力ができてきた。

 

 

 

芸術とかの一言では片づけられないのだろうけど、所謂そういう領域に対して、自分の物の見方がいかに鈍く、的外れで(この言葉自体”論理的領域”の言葉かもしれないが)、つまらないかを感じている。

 

印象をそのまま受け止められず、主張を探し、含意を探し、流れを探す。感覚器官としての心を切り離すことにすっかり慣れて戻れなくしまった。

 

 

どうしたらいいんでしょうねぇ。

それだけです。

 

 

エピジェネティクスやら動物の発生やらの話でよく出てくる絵がある。

球体が斜面を転がり落ちようとしている。斜面は波打っていて、ボールがたどる可能性のある谷が分岐している。下まで転がり落ちてしまえば、そこから丘を越えて隣の谷へ移動することはない。(Weddington, 1957)

時とともに可能性の分岐をたどることは枝分かれした谷に落ちていくようなもので、一度選択をした後で時を戻し選ばなかった方の状態へ行くことはできないという図。

 

これを思い出すと今から感性でも生きることができる人間になることは不可能なのではないかという気がしてくる。

 

何とかして、感性だけで物事を見ることができるようになれないだろうか。

瑞々しい感性と感覚で生きている人がどうしようもなく羨ましくなる。

 

 

 

*参考という名の最近影響されているものリスト

 

 


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